#阿木燿子 は天才だと言うけれど #さよならの向こう側
山口百恵が余多いるアイドルの中から、スーパーアイドルとなり、伝説と昇華したのは、間違いなく、宇崎竜童&阿木燿子のコンビと出会ったからである。
これは、偶然では無く、必然であった。
阿木燿子は、1975年に「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」で実質的な作曲家デビューをする。港のヨーコは大ヒットを飛ばしたが、他にこれと言ったヒット曲は、まだ、作っていなかった。
そんな1976年、山口百恵自身が、阿木燿子を指名し、楽曲の提供を申し込む。
山口百恵が、阿木燿子のどこに惹かれたのか、なぜ目を付けて指名したのか。
当時の阿木燿子の実績からすると、不思議でならない。
山口百恵の感性か?
阿木燿子は、夫宇崎竜童のためにロックを作詞することがあっても、アイドルに楽曲を提供することは予想だにしていなかった。
ただ一つ、山口百恵が横須賀出身であること、自身も横浜出身で横須賀にも縁があること(港のヨーコは、横浜から横須賀へ流れていった)に共通点を見いだし、作詞のキッカケを見いだした。
そして産まれたのが「横須賀ストーリー」である。
この曲から、一気に、アイドル山口百恵は、シンガー山口百恵へと脱皮していく。
オーディション番組でスカウトされた山口百恵。
ホリプロは、当時、森昌子、石川さゆり、という2枚の駒を持っていた。
同年代でもう一枚手駒を増やして、ホリプロ3人娘として売り出す構想があった。
山口百恵は、その条件にピッタリだったので、ホリプロがスカウトした。実は20社が名乗りを上げた逸材なのだが、ホリプロを選んだのは結果的には正解であった。
山口百恵を一目見たホリプロ社長の感想は「足の太い娘だなあ」であった。
同じオーディション番組で、約半年早くスカウトされたのが桜田淳子である。
地方予選で桜田淳子を見たスタッフは、すぐに目を奪われた。
この娘はイケる。どうか超音痴でありませんように。と願った。と言われている。
ある程度の音痴なら構わない。必ず売れる。そう確信したのだ。
案の定、桜田淳子は決勝大会まで進み、サンミュージックにスカウトされる。
それから、遅れること約半年。地方予選で、また、スタッフの目を惹く新人が現れた。
スタッフは思った。ちょっと暗めだけど、第二の淳子が現れた!
山口百恵であった。
そして、ホリプロが、前記の通りスカウトした。
ホリプロは、計画通りホリプロ3人娘を売り出そうとしていたが、半年間先行している桜田淳子が、勢いよく飛び出していた。
桜田淳子が、山口百恵、森昌子と同じオーディション番組出身であり、同学年でもあることから、マスコミは花の中3トリオと取り上げる。ホリプロ3人娘構想は崩壊した。
可愛そうなのは、取り残された石川さゆりである。
白いベレー帽を被って「かくれんぼ」でアイドルデビューするが、中3トリオの陰に隠れて芽が出ない。15才でデビューしたが、鳴かず飛ばず。ようやく日の目を見たのは19才で発売した(ことになっている。正確には18才)津軽海峡冬景色である。
早々に引退した山口百恵は超えがたい存在であるが、石川さゆりは、桜田淳子、森昌子を凌ぐ、日本を代表する歌手となった。
山口百恵は、天使も夢見る桜田淳子の目映いばかりの明るさに比較して、オーディション番組予選から言われていたように、暗いイメージがある。
その上、桜田淳子と違って、足が太い(笑)。
歌も、お世辞にも上手とは言えない。
3人娘には森昌子という歌の達人がいたから、歌の下手さが目立つ。
デビュー曲は「としごろ」
桜田淳子と同じ様な、明るいアイドル路線で、被ってしまった。
レコード売上も、ビックリの7万枚未満である。
桜田淳子と張り合っても勝てない。
ホリプロは、持って生まれた暗さを、山口百恵の魅力に変えようと路線変更を図る。
早速、セカンドシングルの「青い果実」で変身を果たす。青い性路線の始まりである。
5枚目シングル「ひと夏の経験」で40万枚超えのスマッシュヒットを放つ。
意外なのは、7枚目の「冬の色」で50万枚を超えて自己記録を更新している。
あなたは「冬の色」歌えますか?
これらのアイドル活動の中で、山口百恵は三浦友和と出会うことになる。
歌の下手さに呆れたホリプロ社長が、歌手が無理なら役者で。という保険を掛けつつ、演技することが歌に良い結果をもたらすと期待して、積極的にドラマ(赤いシリーズ)や映画(伊豆の踊子など。ちなみに、伊豆の踊子には幼なじみとして石川さゆりが出演している)に取り組ませた。
その成果か、あるいは、宇崎竜童の歌に磨かれたか、山口百恵の歌は格段に成長していく。
(同じようにドラマに積極的にチャレンジした堀ちえみは、演技も歌も上手くならなかった)
阿木燿子を指名して最初の曲「横須賀ストーリー」で初めて60万枚を超える。
ここからの活躍は、皆さん、よーーーくご存知のとおりであるから、省略する。
ベースには、阿木燿子・宇崎竜童コンビの歌があり、節々に、さだまさし「秋桜」、谷村新司「いい日旅立ち」などを配し、歌に磨きを掛けていく。
そして、三浦友和との結婚を機に引退。一切、芸能界から身を引く。
最近では、カードで買物をしてサインすると、店員さんから「あら、有名な人と同姓同名なんですね」と言われるほど、一般人化しているらしい。
山口百恵の引退コンサートで最後の曲として歌われたのは、ラストシングルではなく「さよならの向こう側」である。
この曲も阿木燿子である。
山口百恵を、引退後も光り輝かせ続け、永遠の存在として世に残した曲。
文句の付けようのない名曲である。
あなたは、ソラで歌えますか?
♪ 何億光年、輝く星にも、寿命があると、教えてくれたのは、あなたでした。
なんと壮大な始まりでしょう。
山口百恵は、アイドルの枠を超えたスターです。
スター誕生から生まれた正真正銘のスターです。
輝く星です。
大スターでも、何億年も現役で歌い続けることはできません。いつかは、引退の日が訪れます。
星の長い一生に比べれば、歌手の現役生活は一瞬みたいなものです。
私は、皆さんが期待するよりも早く引退します。
でも一瞬であることに変わりはありません。
私が現役を退いても、私というスターは、ずーと皆さんの心の中で輝き続けるでしょう。
ちょっとまて!
何億光年?
あれ?
何億年なら、ときの長さを表す言葉だけど、
1光年は、一年間で光が進む距離を言う。つまり、距離の単位だ。
時間の単位ではありません。
言葉の魔術師、阿木燿子さん。これは凡ミスですか。
それとも計算ずくの誤用ですか?
名曲過ぎて、聞き逃してきた数十年を返してくれ。
#慰安婦判決 #三権分立
韓国の裁判所は悪くない。
こういう判決が出て、韓国の文大統領は困っている。
日本政府も、本当は困っているのだが、困ってない振りをして、韓国政府に責任をなすりつけて、切り抜けようとしている。
両国政府間では、請求権が無いことを合意している。
日本政府は、すでに国家間で解決している問題だ。そんな裁判、意味がない。韓国国内で勝手に解決してくれ。という態度だ。
文大統領に、なんとかしろよ。と下駄を預けて、後は知らん顔だ。
他方、韓国政府も、国家間では既に解決している。という立場だ。
両国間に認識の違いは無い。珍しい現象だ。
韓国政府、文大統領としては、こんな判決が出るのは迷惑だ。
でも、出てしまった。
韓国が、一流文明国として、三権分立が確立しているならば、たとえ大統領であっても、裁判結果を覆すことはできない。尊重しなければならない。
日本政府も、文大統領に下駄を預けたのは、韓国の三権分立を否定する暴挙とも考えられる。外交政策として、正しいのか、有効なのか。疑問が残る。
さて、なぜ、こんなことになってしまったのか。
それは、両政府、あるいは、両国の国会が無能だったからである。
両国間に請求権が無い。
国家間のみならず、民間に対しても請求権が無い。
そのように国家間で合意したならば、国内法もそれに合致するように整備しなければならなかった。
韓国の国内法では、日本国または日本企業、日本人に対して損害賠償請求が可能だとする。
国が、請求権が無いと合意する。(条約?)
そこに矛盾があったら、矛盾を解消しなければならない。
当たり前だのクラッカーだ。
ところが、韓国は、その法整備をしなかった。日本もしてないだろう。
これは、直接的には立法府の責任だが、立法府に立法を促さなかった政府の責任でもある。
韓国の政治システムはよく知らないが、日本で言えば議院内閣制を採用しているから、法律案を提出するのは政府の責任だ。
そういう当たり前の実務を実施してこなかったから、今回のような判決が出てしまい、文大統領が苦悩しているのだ。
当時、韓国政府に、国内法を整備するよう念押ししなかった日本政府にも責任があるし、今、文大統領に下駄を預けても、三権分立がある以上は文大統領に解決する権限が無いのだから、筋違いな外交交渉を行っていると言って良いと思う。
おっぱいは誰のためにあるのか? #嘆きのボイン
この問題は、とっくの昔に
月亭可朝師匠により解決した。
はずであった。
若い人には、何のことか、分からないかも知れないから、ヲジサンの知恵を授けてあげよう。
1969年12月10日、可朝師匠は、1枚のレコードを発信する。
そのタイトルは「嘆きのボイン」
ちなみに、今では当たり前に使われている「ボイン」という単語だが、これを生み出したのは大橋巨泉である。
昔懐かしい深夜番組「11pm」(いれぶんぴーえむ。と読む)。午後11時から始まる、ちょっとエッチな大人の番組。
現在は午後11時に起きているのは当たり前のようだが、昔の正しい大人は11時には寝ていた。正しくない不真面目な大人と、性に目覚めた青少年が見る番組。それが「11pm」である。
記憶に頼るが、11時ジャストではなく、11:15くらいに始まったのではないか。
当時は、セブンイレブンも、am/pmもなかったから、コンビニを連想する人はいなかった。というより、コンビニがなかった。
その番組に、アシスタントとして出演したのが朝丘雪路。宝塚出身で、おっぱいが大きいグラマラスな女優さんだ。大橋巨泉は「おっぱいが大きい」という直接的な表現を使わずに、ボインちゃん。と可愛らしく呼んだ。
それが定着したのが「ボイン」である。
そんなマイナーな深夜番組から、流行語となり、後年まで定着したのだから、人のおっぱいに対する執着心は凄まじい。
さらに横道にズレると、11pmはエッチな番組だ。と書いた。この「エッチ」はもともとは「変態」の頭文字である。ただ、広範囲にわたる変態全般を意味するのでは無く、「性に対する探究心が強い変態」に対してだけ、「エッチ」の称号が与えられた。
小学生の男子が、女子のスカートめくりをすると、女子は「きゃー、エッチ!」と言って逃げ回った。しかし、その男子は変態では無い。小学生男子がスカートめくりをすることは、全く不自然では無い、むしろ必然ですらある。
大人になって、女子更衣室に隠しカメラを設置したり、洗濯物のなかから女性の下着だけを盗むのは、変態である。犯罪ですらある。犯罪で無くても、女性の黄金水を飲むのが好き。とかも変態である。全部「エッチ」である。
ところが、現在では変態の意味は薄れ、「エッチ」は性行為そのものとして使われている。
「エッチ」を変態から性行為の意味に昇華させたのは、明石家さんまである。
さて、本論である「嘆きのボイン」に話を戻そう。
まずは、本家本元、月亭可朝師匠のレコードを聴いていただこう。
月亭可朝師匠は、残念ながら、2018年3月28日に、急性肺線維症により他界された(享年80)。
その前年(2017)に生で歌った映像が残っていたので、それもご覧いただこう。
この曲が、いかに名曲か、ということを証明する動画を見つけたので、紹介しておこう。
この歌唱は、もう芸術の域と言って良い。
May J.は、コインかな?
ここで皆さんに訴えたいのは、1969年から、
「ボインはぁ〜赤ちゃんが吸うためにあるんやでぇ〜、お父ちゃんのもんとちがうのんやでぇ〜」「これホンマやで~」
という定説は、だれも疑わない絶対的真実とされてきた。ということである。
ところが、この定説に、最近の研究から疑問が投げ掛けられている。
NHK「ヒューマニエンス/”体毛”を捨てたサル」という番組からの情報である。
地球上には200種ものサルや類人猿が生息しているが、身体全体が毛に覆われていないのは、ホモサピエンス1種だけなのだと。
なぜ、ホモサピエンス=人類は、毛を捨てたのか。
詳細は省くが、木の上の生活から地面に降りて二足歩行をするようになり、地上で狩りをするには、体毛がない方が有利だったから。というのが、有力な考え方のようである。
ところで、狩りをするのはオスの役割である。オスの体毛がなくなるのは理解できた。
しかし、人類のメスも体毛がない。むしろメスの方が体毛が薄いと言って良い。
なぜ、メスも体毛を脱ぎ捨てたのだろうか。
かの有名なダーウィンが言うには、メスがおっぱいを強調し、オスにモテるためためだ。メスがモテるようになると、オスを選びたい放題だから、良い子孫を残すことができる。オスの場合は狩りの利便性だったが、メスはメスなりの理由で、生き残り作戦として毛を断捨離した。これがダーウィンが唱えた性選択説である。
しかし、メスの魅力、とくに、良い子孫を残せる。ということに関しては、大きなお尻(安産型)とか、他の要因もあるだろう。ダーウィンは、おっぱいに重点を置きすぎではないか。ダーウィンがおっぱい星人だっただけではないか。
だが、悲しいかな、人類のオス=男は、みな、おっぱいが大好きである。おっぱいに興味がないフリをしているのは、ただのムッツリスケベに過ぎない。おっぱい星人なのはダーウィンだけではない。
ところで、
人類のメス=女性のおっぱいは、乳腺と脂肪でできていて、丸びを帯びた美しい造形をしている。
科学的には、ここが非常に重要だ。繰り返す、重要なのだ。
母親の乳で赤ちゃんを育てるほ乳類のおっぱいには、みな乳腺がある。母乳を作る重要な器官だ。授乳期になると、乳腺の他に脂肪も付く(その理由は、良く分からない。NHKも説明していなかった)。
逆に言うと、一般的なほ乳類のおっぱいは、授乳期以外は乳腺しかなく、しなびている。丸みがない。見た目の魅力がない。
ただ一種、人類の女性だけが、授乳期に関わらず、常に、乳腺と脂肪で丸みを帯びて美しいのである。
これは月亭可朝もびっくりの事実である。
おっぱいが、授乳期以外にも、美しい形状を保っているということは、「赤ちゃんのため」では説明が付かない。他の理由がなければならない。おっぱいは、赤ちゃんのため「だけ」にあるのではなく、男性の気を惹き付けるフェロモンの役割を持っているのである。
つまり
「おっぱいは、お父ちゃんのためにある」も、もうひとつの正解なのだ。
さあ世の中のお父ちゃん達よ。
気兼ねなく、お母ちゃんのおっぱいを堪能してくれ給え。少子化に歯止めがかかり、日本が再生する日も近い。
#司法試験合格者 人数のひずみ
5年前の今日、FBにアップしたものです。
歴史を残すために、ブログに転載。
多少、ブラッシュアップしました。
#弁護士は不足している。 #弁護士は飽和して稼げない。
菊池裕太郎
某早川元自民党議員が、役職中は立候補しません。と約束したのに反故にして立候補し、その穴埋めを買って出た気概は、尊敬に値する。
しかし、人生のバランスシートにやりがいを掲げるのは、いかがなものか。
確かに弁護士の仕事には、基本的人権の擁護と社会正義の実現という立派なお題目がある。それには一定の価値があるだろう。
人生のバランスシートに付け加えるのも、ひとつの考え方である。
だが、裕太郎の理論には、じゃあ、普通のサラリーマンの仕事には、やりがいがないのか。彼らの人生のバランスシートにも付け加えないと比較不能ではないか。弁護士は特別だ。という優越理論が、見え隠れする。
弁護士は必要とされている。都会でも、地方でも、法秩序を守る機能が期待されている。
ただ、その仕事は金にならない(場合がほとんどだ)。
他方、弁護士とて、金を稼がないと食っていけない。
苦労するのだから、一般的なサラリーマン以上の収入を求める、期待する。
(事務所経費が無視される傾向にある。という別問題もある)
この矛盾は、どこで産まれたか。
ニワトリと卵かもしれないが、
昔の弁護士は、そこそこ儲かった。
だから、儲からない社会正義の実現に力を注いでも、喰っていけた。
弁護士側は、儲からないけど社会の役に立つ仕事をして自己満足をしていた。
弁護士法1条を実現していると、悦に入っていた。
他方、国家、地方自治体、社会全体が、そんな弁護士に甘えて、社会正義の実現は、ただで手に入る。
儲かる弁護士が、身銭を切ってやってくれる。
と安心してしまった。
自分たちの責任ではない。協力もしないし、金も出さない。
だって弁護士がやってくれるモン。
どこかで、区切りを付けなければならない。
弁護士の中には、弁護士の矜持として、身銭を切ってでも社会奉仕すべきだ。という人もいる。
逆に、弁護士だって人間だ。労働者だ。仕事をするなら対価で報われなければならない。対価がない、あるいは劣悪なら、やらない。という人もいる。
両極端を挙げたが、弁護士だって一枚岩ではない。だから、問題は複雑になり、解決は、永遠に後回しにされてきたのが現在である。
言いっ放しで、ゴメンナサイ。